しっとりにじきたAutumn!
「うん...」
あたしの意識がおぼろげに浮かんでくる。
朝だ。いつもならシャキっと目覚めるために「今日も頑張ろっ!」なんて自分へのエールを送ったりするものだけど。
何だか今日は身体が怠いし寒い。このところ冷房もいらなくなり、快適に寝つけていたのに。窓を開けて寝てしまったのだろうか。
身体にあたるシーツの感触と暖かさが、心地よいまどろみから逃がしてくれない。
もう5分だけ寝てしまおうか...なんて甘えてしまいそうになったその時。
気づいた。
この心地よさは全身を包み込んでいる。
それは良いのだけど、つまるところ、私は服を着ていないのだ。
と、いうことは...
「おはようございます...せんぱい」
ふにゃっとした声に瞼を開けると、とろけた瞳と目が合った。
「おはよう...喜多ちゃん...」
頭を抱えたくなりながら、喜多ちゃんに応える。
案の定、喜多ちゃんも服を着ていないのだろう。シーツからほっそりとした肩と鎖骨が覗いている。
「郁代ちゃん、って呼んでくれないんですか?せんぱ〜い...」
喜多ちゃんは、ふにゃふにゃとした笑顔のまま、あたしに擦り寄ってくる。
茜色の髪をよしよしと撫でてやると、喜多ちゃんは満足げに吐息を漏らしながら、すりすりと顔をくっつけてきた。
すべすべとした感触とふんわり漂ってくる甘い香りに、寝起きの思考が流されて行きそうになるが…ほっぺたの内側をグッと噛んで堪え、喜多ちゃんを押し戻す。
「せんぱい...?」
喜多ちゃんは「どうして?」という表情で見つめてくるが、可愛い顔をしてもダメ。
だって...
「もう、こういうのはしないって言ったでしょ」
「またそれですか...」
あたしは突き放すように言ったつもりだけど…
喜多ちゃんは苦笑いを浮かべ、やれやれとした様子。
「いい加減素直になりましょうよ〜。照れ屋さんなのは先輩の可愛いところですけど...冷たくされると寂しいです」
それに、と喜多ちゃんは再び擦り寄って来ながら低めの声でささやいてくる。
「昨日あんなに欲しがりさんだったのは、誰ですか...?素直になった方が気持ちいのに...」
喜多ちゃんの声と吐息に、ぞくぞくとした感覚が耳から身体の表面に広がって、お腹の奥が昨日の感覚を思い出す。
けれど、
「っ...ほんとに、ダメっ」
「あっ...」
それらを振り払いながら、改めて喜多ちゃんを押し戻す。
その勢いのまま、あたしは喜多ちゃんを見ないまま、口を動かした。
「今...結束バンドは大事な時期なんだよ?あたしは受験だってあるし、喜多ちゃんだって、ギター頑張らなきゃじゃん」
喜多ちゃんは、口を開いて何か言おうとしている。
けれど…今日こそ、何も言わせない。
だって…
「それに...喜多ちゃんには、ぼっちちゃんがいるでしょ」
その瞬間、喜多ちゃんがピタッと固まる。
・・・言ってしまった。
こういう事がある度に、もうこれっきりという会話は繰り返してきたけれど、あえて言わなかった事だ。それは、多分…
「リョウだって...いい気はしないよ」
あたしにも...後ろめたさがあったから。
別に、彼女らと付き合っているわけではない。
けれど、いちばん深く関わってきたのは、お互いに目の前の人じゃ無いと思うから。
喜多ちゃんも同じ気持ちは抱えていたのか、「それは...」と目を逸らす。
その様子に胸がずきりと痛むのを感じるが、最後まで続ける。
「喜多ちゃんのことは好きだよ。けど...このままだと、お互いのためにも、結束バンドのためにもならない...と思う」
だから、
「本当に、これっきりにしよう」
絞り出すように告げると、喜多ちゃんは俯きながら弱々しく頷いた。
◁
それからというもの、あたしと喜多ちゃんが一緒にいる事は減った。
元々、二人きりになる事は少なかったけれど、ひょんなことから”そういうこと”があってからは、二人で過ごす時間が増えていた。
イソスタ映えするカフェに付き合ってほしいとか、勉強を教えて欲しいとか、よく喜多ちゃんからあたしを誘ってくれたのだ。
あたしは仕方なく付き合う素振りをしていたけれど、実のところ、その誘いを楽しみにしていたのだと思う。
明るく元気で可愛い後輩が慕ってくれるのは嬉しかったし、何より一緒にいて楽しい。
それに、喜多ちゃんと一緒にいると、いつも隠している、自分でも気づかなかった本音が引っ張り出されてしまって…それが、恥ずかしながらも心地よかった。
けれど、それももう終わり。
勿論、結束バンドの活動は続けているし、会話をしないという訳でもない。ただ、以前のような距離感に戻っただけ。
時折、喜多ちゃんから、ちらりとした視線を感じるけれど、気のせいだと思うことにした。
そうだ…これが、正しいんだ。
むずむずとした気持ちを抱えながらも、それを振り切るように、あたしは以前にも増して忙しい日々を過ごしていた。
◁
「先輩、もし今度のお休みが空いていたら...私に付き合ってくれませんか...?」
そんな日々がしばらく続いたある日、喜多ちゃんがおずおずと話しかけてきた。
練習終わりの帰り際だ。ぼっちちゃんやリョウはいつの間にか帰ってしまっていて、スタジオにはあたしと喜多ちゃんしかいない。
喜多ちゃんは、申し訳なさそうな、不安そうな、何とも言えない表情で、あたしの返答を待っている。
「喜多ちゃん...」
あたしが困った表情を浮かべると、喜多ちゃんは慌てて口を開いた。
「あの、結束バンドのイソスタ用の写真を撮りに行きたい所があって。最近あんまり更新出来て無いんですけど、ひとりちゃんもリョウ先輩もちょっと誘いづらくて...」
眉をハの字にしながら弱々しく呟く喜多ちゃん。
しおしおとした様子を見ていると、胸がきゅっと締め付けられる。
例の約束はあるけれど、別に喜多ちゃんと喧嘩別れしたわけでもない。それに、頼りにきた喜多ちゃんを突き放すのは、先輩としてもリーダーとしても違う気がして…。
「分かった。明日でいい?」
罪悪感のような感覚に流されて、あたしはついそんな答えを返してしまった。
それを聞くと、喜多ちゃんはパッとこちらを見て、そのまま何度か瞬きした。
キターン!と目を輝かせてはしゃぐ姿を予想していたのだけれど、喜多ちゃんはまた顔を俯きながら、こくんと首を縦に振るのだった。
◁
「何だか、落ち着くところだね」
「はい。先輩、最近忙しそうなので、ゆっくりしたところがいいかなって」
翌日、あたしと喜多ちゃんは、吉祥寺の井の頭公園に来ていた。
喜多ちゃんにしては落ち着いた場所だと思ったけれど、昨日から変わらない、しおしおとした様子には合っている気もする。
これくらいの場所なら、リョウやぼっちちゃんも付き合ってくれるのではと思ったけど…。それは口に出さなかった。
公園を見やると、木々はすっかり紅葉を迎えていて、池の水面に秋晴れの青と枯葉の紅黄が静かに映っている。
「わぁ。綺麗ですねっ」
喜多ちゃんも目を輝かせ、パシャパシャと写真を撮りだす。
その姿を見て少し安心した。これで喜多ちゃんが元気になってくれると良いのだけど。
とりあえず公園を一周してみることにしたが、少し歩くたびに小洒落たカフェやアクセサリーの露店が出迎えてくれて、退屈はしなかった。
喜多ちゃんも楽しそうにスマホをいろいろな角度から構えており、イソスタ用の写真を撮るという目的は達成できそう。
公園には動物園やスワンボートといった遊べる施設もあったので、あたしは喜多ちゃんの突撃を今かと構えていた。けれども喜多ちゃんは、また今度来ましょう、とあたしの隣で歩き続けるのだった。
「少し、休憩しませんか」
もうすぐ一回りというところで、喜多ちゃんの提案により、池のほとりのベンチで足を休めることにした。
ベンチに腰かけたまま、二人で池の水面をぼうっと眺める。
相変わらず喜多ちゃんは口数が少ない。昨日から感じていたけれど、こうして静寂が訪れると…いっそう喜多ちゃんの様子を意識してしまう。
「今日は、ありがとうね。久々にリフレッシュ出来たかも」
「そんな...。私の方こそ、忙しいのにありがとうございました」
沈黙に耐えきれずあたしが口を開くと、喜多ちゃんはそっと返してくれるけど、会話はそこから広がることは無かった。
あたしはなんだかむずむずとした感覚に耐えられなくて、また前方に目を戻す。
眼前には、黄と紅に染まった葉っぱが、お互いに触れ合いそうな距離でゆらゆらと揺れている。
なんだか、今のあたしと喜多ちゃんみたいだな。
ぼうっとそんな事を考えたその時、
「あ...」
そっと。喜多ちゃんがあたしに手を重ねていた。
あたしの手がぴくりと小さく跳ねたのを見ながら、喜多ちゃんはぽつりと呟いた。
「今日は、本当はイソスタの写真を撮りに来たんじゃないんです」
それもありますけど、と続ける喜多ちゃん。
「え...?」
どういうこと?と喜多ちゃんの方に顔を向ける。
すると喜多ちゃんは、俯いていた顔を上げて、あたしをじっと見つめていた。
喜多ちゃんは、あたしの手の甲をそっと撫でながら微笑んで告げる。
「ただ、先輩と一緒に居たかったんです」
秋風に運ばれた落ち葉が、目の前を通り抜けていく。
けれども、あたしの瞳は、赤く染まった喜多ちゃんの微笑みでいっぱいだった。
「喜多ちゃん...」
ぼうっとそれだけ返すも、喜多ちゃんは何も言わない。そのまま眉をハの字にして、じっとあたしを見つめている。
あたしは、何だか堪えきれなくって、思わず顔を前に背けてしまう。
「別に、お出かけくらいいつでも...」
たどたどしく口を動かすが、何を喋っているか、自分でもよく分からない。
ただ、気づいたら、喜多ちゃんと指を絡めていた。
喜多ちゃんも何も言わずに、時折指を擦り合わせるだけ。
その温もりが、感触が、あたしの中でむくむくと膨らんでいくのを感じる。
そんな感覚に耐えながら水面に視線を移すと、いつの間にか暮れていた夕日の中、黄色と茜色がそっと寄り添いあっていた。
◁
辺りが暗くなった頃、あたしと喜多ちゃんは電車に揺られていた。
お互いに口数は少なかったけれど、繋いだ手はそのままだった。
ホームには急行も並んでいた気がするが、何故だか流れてくるアナウンスは各駅への停車を案内している。
車内は空いているのに、喜多ちゃんはぴとっとくっついていて、車両の揺れる度に触れ合う腕や脚の感触が気になって仕方がない。
「先輩...」
時折、喜多ちゃんがあたしの名前をぽつりと呟くのだけど…
あたしは何だかいっぱいいっぱいで、きゅっ、と絡めた指を通して返事をすることしか出来なかった。
「あ...」
喜多ちゃんに気を取られているうちに、アナウンスが下北沢への到着を告げていた。
「今日は、もうお別れですね」
名残惜しそうな喜多ちゃんの声。
そんなことを言うのに、絡めた指は離さないでいる。
「そうだね...」
あたしも手を動かせないでいたが、発車を告げるベルの音。
もう…行かなきゃ。
「あっ...」
慌ててホームに降り立ち、少し間をおいて、乗っていた列車が隣を過ぎ去る。
発車した列車に遅れて、ひんやりとした風が通り過ぎて行く。
ほてった身体を冷ますような夜風に秋夜を感じたが、手の温もりはそのままだった。
◁
「先輩...?」
「えっ、と...」
喜多ちゃんは手を絡めたまま、ぱちくりとあたしを見つめている。
もう遅い時間なのに、悪いことしちゃったな。そんな事を思う。
けれど...
「喜多ちゃんと、まだ一緒にいたかった...から...」
足もとの点字ブロックに目を落としながら、ぽつりと呟く。
ただ、それだけ。
色んな事が頭をよぎりそうになるが、今はとにかくそれだけだった。
「せんぱい...」
手のひらのすべすべとした感触が、一瞬きゅっと強くなってから離れる。
そして、
「先輩...!!」
ぽふっと。身体が暖かさに包まれた。
喜多ちゃんは、両手をあたしの腰にまわしながら、きゅっと目をつぶった顔を押し付ける。
「うん...」
何がうんなのか。
言葉はそれ以上続かなかったけれど、お互いの気持ちは身体で感じる熱から伝わって。
喜多ちゃんは、きっとこの熱に耐えていた筈なのに。酷い先輩だ。
気づいたら、あたしも喜多ちゃんのほっそりとした腰に手をまわして、ゆるゆると抱き寄せていた。
こんなところ、誰かに見られたら大変だな。
ぼんやりそんな事も思うけれど、回した手を離す気にはなれなかった。
「先輩...いいんですか...?」
「うん...」
喜多ちゃんがぽつりと呟く。
ますます増していく熱に微睡んでいたあたしは、そのままぼうっと返事する。
すると…
「...!!」
急に喜多ちゃんが胸元ですうすうと荒く呼吸をし始めた。
背中を抱きしめていた手の片方は、するすると下に滑って行って...
「ちょ...!ここ!駅のホームだから!!」
慌てて押し戻すと喜多ちゃんと目が合う。
ビシッと止める筈が、とろりと溶けた表情に、喜多ちゃんはやっぱり可愛いな、なんて思ってしまった瞬間ー
「ふふ...」
はむ、と。あたしの唇にふにっとした感触が伝わる。
ふにふに…。
そのまま唇が柔らかくてしっとりした感覚で撫でられる。
硬直した身体をおいて、視線だけなんとか動かすと、にんまりと細められた瞳。
喜多ちゃんは、いっそう口と体をぎゅっとくっつけた後、はあ…と吐息を漏らしながら
「それじゃあ...ここじゃなきゃ良いんですか?先輩...?」
と耳元で囁いてきた。
ぞくっと身体が震える。喜多ちゃんは、楽しそうな目でこちらを見つめてくるが、あたしは何も言えず、ただ口をぱくぱくとするだけ。
「ふふ...」
そんなあたしを見てか、喜多ちゃんは、ほてった吐息をもう一度耳にあててから、あたしの腰を撫で始める。
「…っあ…」
耳と腰から伝わる喜多ちゃんのじっとりとした熱と、お腹から湧き上がるぐつぐつとした熱が、あたしの中でぶつかる。
これは…ほんとに、だめ。
「しっ...しらないっ...!」
久々の、どこか待ち望んでいたような...ぞくぞくとした感覚に耐えながら、何とかそれだけ返して、あたしは喜多ちゃんの手を取って歩きだす。
「わわっ...」
引っ張られた喜多ちゃんの慌てた声が聞こえるが、暫くすると手に感じていた熱と感触が、腕にも広がってきた。
時折吹き抜けていく夜風に、街を行く人は顔を伏せ、体をさすっていたけれど…
あたしたちは、お互いに寄り添う。じんわりとした熱でいっぱいだった。
◁
その夜、あたしの部屋には久々の台風が上陸して、記録的な大洪水となった。
また、その後も…季節遅れの秋雨前線が停滞して、暫くの間、しっとりとした湿度が下がることはなかったのだった。