些細なことですれ違った虹夏ちゃんと喜多ちゃんが、お互いの気持ちを確認するまでのお話。
この光景を私は知っている。
らしくない曇天を背負って彼女は尋ねる。
「先輩は私のことをどう思ってるんですか?」
笑顔ではあるけれど、物寂しさを感じる表情。
その時、なんて答えるべきだったのか。
――いつもそうだった。返事をしようと口を開く。しかし、どうあがいても声が出なくて。何も伝えられないまま目の前の彼女はおぼろげになり、やがて姿を消してしまうのだった。
★
伊地知虹夏は不機嫌な顔で台所に立っていた。
腕を組み、仁王立ちで目の前の電気ケトルを睨みつける。壺型の容器を模した機械からは、ボコボコと音が立ちはじめたものの、お湯が沸いたことを示すサインはまだ現れない。
じっとしていれば良いものを、焦燥感に突き動かされて人差し指を繰り返し二の腕に当ててしまう。刻んだリズムのBPMは約180。それに気づいた途端、思わずため息を吐いてしまった。
あの夢を見るたび憂鬱になる。
理由は分かりきっていた。あの光景は、本心を明らかにさせる。
やがて、カチリとボタンの動く音がした。同時にお湯が沸いたことを示す赤いサインが現れる。インスタントコーヒーの粉を、スプーンを使ってコップに入れた。電気ケトルからコップにお湯を注げば、黒い飲み物が渦を巻いて現れる。
ミルクや砂糖を入れないまま口にする。目覚めに相応しい苦味が口の中に広がった。
その日、虹夏はスティックケースと共に朝早くから出かけた。
今日は、結束バンドのスタジオ練習の予定が午前中から入っている。駆け出しのバンドにとって、平日におけるスタジオ使用料金の割引サービスはありがたい。
スタジオに到着すると、すでに山田リョウが待合室にいた。眠そうな目をしているあたり、徹夜でもしたのだろう。生活リズムが乱れている様子の幼馴染みに苦言を呈しながら、加糖の缶コーヒーを買い与えた。
スタジオに利用者がいなかったこともあり、虹夏たちは予約時間よりも早く部屋に案内された。スタジオに入ると、早速セッティングを始めた。自分の持ち場に行き、スローンの高さやドラムセットの位置を調整していく。リョウは変わらず眠そうにしながら、人数分の楽器スタンドを組み立てている。
結束バンドのリードギターである後藤ひとりも、高校を卒業してから生活リズムが乱れているようだった。しかし、彼女が遅刻する心配を虹夏はまったくしていなかった。
彼女には心強い味方がいる。
「おはようございます! 早めに入れてよかったですね!」
音を遮るために作られた厚い扉を開けて喜多郁代がスタジオに現れる。明るい声と共に、爽やかな風が室内に漂う。彼女の影から、ひとりが顔を出した。
「あ、おはようございます」
「喜多ちゃん、ぼっちちゃん、おはよう!」
「おはよう。……郁代は朝から元気だね」
「はいっ!」
キラキラと輝く郁代の笑顔がリョウに向けられる。リョウは額に片手を当てながら苦しそうにうめいた。睡眠不足のため、太陽のような彼女の明るさが辛いのかもしれない。
そんなリョウを呆れた目で見つめた。
ふと視界の端に郁代が映る。彼女の若芽色の瞳は虹夏に向けられていた。一瞬、目が合うものの、すぐに視線を切った。
「早く入れたことだし、準備ができたら早速合わせちゃおうか!」
屈んで手を伸ばし、フロアタムの位置を調節するふりをする。もう一度顔を上げると、郁代はギターケースから楽器を取り出しながら後藤ひとりと談笑していた。
素直でない自分の態度が嫌になる。虹夏はドラムの陰に隠れてため息を吐いてしまった。
ことの始まりは、些細なことだった。
結束バンドは、リョウとひとりが人一倍インドアなため、バンド活動において虹夏は郁代と行動することが多かった。特に、郁代が大学に入学してからはひときわだった。
郁代は人好きのする性格をしている。彼女はリョウやひとりに憧れの感情を抱いているようだったが、虹夏には遠慮がなかった。
彼女は虹夏に甘えていた。人が好きで、結束バンドが好きで、遠慮を知らない彼女が、虹夏の日常に深く入り込むのに時間はかからなかった。
その日も虹夏は、郁代に誘われてイソスタで話題になっているカフェに二人で出かけていた。写真映えする店内に料理の数々。郁代はイソスタに載せるために、目を輝かせてそれらを撮影する。夢中になって情報を貪る彼女は、見ていて危なっかしいけれど微笑ましい。
撮影した画像を確認する彼女を眺めながら、撮り終わった料理に手をつける。
おしゃれな料理に舌鼓を打っていると、虹夏も写真を撮られた。携帯端末を眺めながら楽しそうに笑う郁代に文句を言い、今度は二人で写真を撮る。彼女と出かける度に繰り替えされるやりとりだった。
店を出ると辺りは暗くなっていた。
日が落ちたわけではない。黒みを帯びた雲が空を覆っていた。
降り始めるのも時間の問題に見えた。雨雲の動きを確認できるサイトを見て、最寄り駅まで急ぐか、近場で雨宿りするか決めようとした。
そんな時、声をかけられた。
「先輩」
「どうしたの?」
「……先輩は私のことをどう思っているんですか?」
唐突な質問に驚いて携帯から顔を上げる。
彼女の眼差しは真剣だった。若芽色の瞳の鋭さに思わずたじろいでしまった。
「どうって。――友達だよ。大切なバンドメンバーで、大事な後輩」
正しい答えのはずだった。他に言うべき言葉を思いつけなかった。
「そうですよね」
そう言って、なんてことないように郁代は笑った。その時彼女が見せた、どことなく悲しそうな笑顔を虹夏は忘れられなかった。
数日後、郁代から虹夏あてにロインが届いた。
「ひとりちゃんと同棲することになりました」。書かれていたのはそれだけ。短文だったにも関わらず、虹夏はしばらく画面から目を離せなかった。
それからだった。あの日の夢を繰り返し見るようになったのは。
今であれば、あの時、何て答えるべきだったのかよく分かる。そして、それを伝えるには遅すぎるということも。
ひとりと一緒に暮らすことになった郁代は、それまでよりも楽しそうに見えた。輝いて見える後輩二人を、虹夏は目を細めて眺めた。
あのロイン以降、郁代とは距離をとるようになった。彼女とどう接すればよいか分からなくなった。表面上はいつも通りになるよう努めた。しかし、これまでの関係は崩れていた。
郁代も、虹夏と距離を取ろうとしているようだった。ロインの数も減り、一緒に出かけることも少なくなった。たとえ出かけたとしても、彼女はひとりを気にしてすぐ帰宅してしまう。虹夏はそんな彼女を、文句ひとつ言わずに見送った。
今できることは、早く時間が解決して、普段より遅れがちになったドラムが元通りになることを祈るだけ。何もできない自分を自嘲しながら、今日も虹夏はドラムを叩く。彼女の歌声とスネアの音が、やけに耳に響いた。
★
ある日、郁代が虹夏の家を訪れることになった。
結束バンドも知名度が上がり、ライブのチケットの売れ行きも好調だった。こなさなければならない、バンド活動における経理や庶務作業。同時期に、大学で課題がたくさん出たこともあり、虹夏のキャパシティは限界を迎えていた。
同じバンドメンバーであるリョウやひとりは作曲に専念している。むしろ、彼らはこのような作業において頼りにならない。見かねた郁代が、虹夏の手伝いに名乗り出た。
彼女が虹夏の家に来るのは久しぶりだった。
郁代とひとりが一緒に暮らし始める前は、リョウほどではないが、郁代も頻繁に虹夏の家に訪れていた。自宅に彼女がいる久しぶりの感覚に気持ちが浮き立つ。
その日は、朝から曇天だった。天気予報は曇りのち雷雨。このような日に作業をすることになったのは虹夏の不手際だった。自分一人で抱え込み過ぎて、スケジュールに余裕が無くなったことを反省する。
郁代とは、最低限の会話をして黙々と作業を進めた。早く終わらせて雨が降る前に帰宅する。そんな建前で、ひたすら手を動かす。
時々顔を上げて郁代を見る。
緩く巻かれた赤い髪。はっきりと引かれたアイライン。長いまつ毛。赤いリップ。彼女の可愛らしさを引き立てる、ふんわりとした生地を基調としたガーリーな服装。
流行りの化粧をそつなくこなし、スタイルに合った服を可憐に着こなす。今日は完全にオフなのか、ラメやパールの輝きが印象的な淡い色のネイルチップも付けている。
虹夏も身だしなみに気を遣っているほうではあるが、大学に入ってから郁代は一層垢抜けたように感じる。
「雨だ」
雨音に気づいて窓を見る。予報よりも早く降り出していた。雨足は強く、家の中でも雨音を強く感じる。
「早く帰らないと……」
郁代が心配そうにつぶやいた。天気予報のとおりであれば、雨足はさらに強くなり雷も鳴り始めるのだろう。
「先輩すみません。今日はここで帰らせてもらってもいいですか?」
「うん。かなり作業は進んだから、後は一人でも大丈夫だよ。今日はありがとう」
郁代は責めるような目で虹夏を見た。
「何を言っているんですか。同じバンドメンバーなんだから、もっと私を頼ってください」
「そうだね、ごめんね」
気を悪くした様子の郁代に苦笑する。良い後輩に恵まれたと感じる。
郁代は、身支度を調えると立ち上がった。虹夏も彼女を見送るために立ち上がる。これから郁代は、同居人がいる自宅に戻るのだろう。
「それでは先輩、失礼します」
軽い会釈をして郁代が微笑む。彼女が背中を向けた時、虹夏は衝動的に彼女の手首を掴んでいた。
「待って!」
「先輩?」
動きを止めた郁代が、戸惑い顔で振り返った。
「……やっぱり今日は泊まって行きなよ。この調子だと電車だって途中で止まるかもしれないし。こんな日に、喜多ちゃんを一人で外に出せないよ」
もっともらしい理由を並べて、懇願するように彼女を見る。
雨音がさらに強くなる。強い雨足に不安を覚えていたのだろうか、彼女は安心したように微笑んだ。
「それも、そうですね……。先輩、久しぶりに泊まらせてもらっても良いですか?」
虹夏は、静かにうなずいた。
ひとりとの電話を終えた郁代が虹夏の部屋に戻ってきた。
「ぼっちちゃんは平気そう?」
「はい。今日も外出の予定はないし、雨の日は、家の中にいても自責の念にかられないから心配しないで大丈夫とのことです」
「ぼっちちゃんらしいね」
相変わらずのもう一人の後輩の生態に苦笑した。
郁代が泊まることが決まってから、虹夏の気持ちは高まっていた。
口数も多くなり、昔のように彼女と一緒に夕飯を作る。
テレビを付けると、大雨の影響で運転見合わせになった路線について報道されていた。
郁代の使う電車も止まっていた。しばらくして携帯に連絡が入り、星歌も父親も、今日は帰宅しないとのことだった。幸いにも、虹夏や郁代たちの住む家に避難警報は出ていない。
家には二人きり。変わらず家の中には雨音が響いている。遠くから雷鳴らしき音も聞こえてくるようになった。
食事を終えた二人は何気ない会話を楽しんだあと、寝ることにした。
虹夏はベッドに、郁代はベッドの下に敷いた布団に横になる。電気を消しても二人の会話は続いていた。
虹夏は感傷にひたりながら、彼女とのやりとりを楽しんでいた。今彼女と過ごせるのは、天気の気まぐれであり、今後このような機会は二度と訪れないかもしれない。
不意に話が止まる。眠くなってしまったのかと思った時、尋ねられた。
「先輩は私のことをどう思ってるんですか?」
心臓が飛び跳ねた。なぜ今更聞いてくるのか分からない。
しかし、すぐに思い直した。
郁代は人に合わせることが得意と自負するほど周りをよく見ている。二人が一緒に暮らし始めて以降、気持ちが宙に浮いたままの虹夏を見かねて、失恋させようとしてくれているのだろう。
彼女の心遣いに胸が痛む。寝返りを打って背を向ける。逃げることはしない。何を言うべきかは分かりきっていた。
「好きだよ――。喜多ちゃんと付き合いたいと思うくらいには好き。でも、分かってるから。今の喜多ちゃんには、ぼっちちゃんがいること」
「……何か勘違いしてるみたいですけど、私とひとりちゃんは何もありませんよ?」
「嘘!?」
虹夏は飛び起きた。真相を確かめるために電気を点けて郁代を見る。郁代も体を起こして、虹夏を見ていた。
「だって、同棲するって言ってたじゃん!」
「それは言葉遊びで、深い意味はありません」
「それじゃなんで、一緒に暮らすことになった途端よそよそしくなったの?」
「先輩だって、私と距離を置いたじゃないですか!」
郁代は気まずそうに目を伏せた。虹夏は言葉を失った。彼女の行動の意図が分からない。
何もないのであれば、なぜ当てつけのように、わざわざ個人あてのロインで伝えてきたのか。ひとりと一緒に暮らすことをきっかけに態度が変わったのか。そして、未だに虹夏の気持ちを尋ねてくるのか。
探るような視線を向けると、郁代は身の置き場が無さそうに体を縮ませた。
「私、リョウ先輩には貢ぎたいと思うし、ひとりちゃんのことは支えたいと思うんです。でも、なぜか先輩には求められたいと思ってしまって……」
肩から力が抜けていく。虹夏は、また彼女に振り回されたことに気づいた。
「……先輩。先輩は私のことをどう思っているんですか?」
彼女から真剣な顔を向けられた。
閃光とと共に雷鳴が轟いた。きっと近くに落ちたのだろう。眼前の彼女は雷に怯むことなく、まっすぐ見つめてくる。
ストレートの赤い髪。何もつけていない爪。虹夏の部屋に置きっぱなしにしていた彼女のパジャマを身につけて、メイクを落とした姿。真剣な表情のその奥で、彼女の若芽色の瞳は不安げに揺れている。
何度目かの問い。虹夏は固唾を飲み込んだ。
言うことなど決まっている。バンド内恋愛がどうかなんて考えない。今、伝えなければ確実に後悔する。
「好きだよ、大好き! 喜多ちゃん、私の恋人になってくれませんか?」
衝動に突き動かされるままに伝える。すると、郁代は照れくさそうに微笑んだ。
「そう言われるのを、ずっと待っていた気がします」
室内にいても分かるまばゆい光と共に、先ほどよりも大きな雷鳴が轟いた。
それに背中を押されるようにして、虹夏はベッドから抜け出した。
半ば飛びつくようにして、ベッドの下にいた彼女を抱きしめる。郁代が告白の返事を耳元で囁いてくる。それを聞いた途端、より強く抱きしめてしまった。
変わらず部屋には雨音が響いている。地を這うような雷鳴も轟いている。
外界から隔絶されたように思える二人きりの空間。
雷が空を切り裂くように、今まで築いてきた自分たちの関係は、今から劇的に変わってしまうのだと虹夏は感じてしまった。