虹夏ちゃんが風邪をひいてしまったとある日のお話し。
虹喜多ちゃんが付き合っている設定です。
ピピピピ。
「…どう?」
「うーん。下がらないな」
昨日の夜からなんとなく体調が悪いなと思ってはいた。
今朝起きるとさらに怠さと体が熱いのを感じた。
学校とバイトとバンド活動をそれぞれ休むことにして、お姉ちゃんには昼間の間面倒を見てもらう。
今は何度目かになる体温を測ったところ。
午前中に病院には連れて行ってもらって薬をもらった。
流行りの感染症じゃなかったのはよかった。
最近季節の変わり目で風邪の患者が多いとのことで私もそれをもらってしまったのだろうと言われた。
薬はさっきお昼ご飯を食べた時に飲んだけど、さすがにそんなに即効性はないみたい。
「新しい飲み物とか持ってくるから待ってな」
「…ありがとうお姉ちゃん」
自分でもわかる鼻声で返事をする。
悲しいわけでもないのに自然と目に涙が溜まる。
昔から熱が出ると異常に涙が出て目が潤うし視界はボヤける。
結束バンドグループに今日は私不在で練習するようには伝えてある。
残念。楽しみにしてたのに。
とは言っても学校終わりの夕方にSTARRYで練習をするから音くらいは聞こえてくるかもしれない。
しかしこんなに体調を崩すのは久しぶり。
それと同時にこんなにゆっくりするのも久しぶり。
いつもはさっきも言ったように学校にバイトにバンドに。
この3つを中心に何かしらの用事は常に入っていた。
24時間以上連続で家にいるのは不思議な感じ。
時折体の向きを変えながら代わり映えしない部屋の中の景色を見つめる。
あー、熱で頭がぼーっとする。視界もボヤけるし。
スマホを触る気も起きないや。
寝ようにもさっきまで寝てたから寝られない。
ガチャと扉が開く音が聞こえた。
ちょうど飲み物を飲みたいと思った。
「お姉ちゃんありがとう。飲ませて」
なんて小さい子供みたいに甘えてみる。
すると口元にストローらしきものがやって来た。
お姉ちゃん気が効く。体を起こすのすら辛い今の状況で、ほぼ体を起こさなくても飲み物を飲めるストローの存在はありがたい。
頭だけ起こしてパクッと口に含むとやっぱりストローだ。そのまま吸って飲み物を飲む。
飲み終えた後ボヤける視界の中に薄い黄色の物が見えた。
我が家では家族の誰かが体調を崩すと決まってリンゴを持ってくる。
きっとあれもリンゴだ。
「リンゴ食べさせて」
とまた甘えてみると一口サイズになった物が口元にやって来た。
これもまた気が利く。
「おいしい」
やっぱりリンゴだ。
少しでも食べて飲んでをしたからなのか。
ちょっと眠気がやって来た。
そのままスーッと瞼が下がってくる。
*
次に目を覚ますといくらか体は楽になっていた。
あ、頭の下にあった氷枕がまだしっかり冷たい。
寝てたどこかのタイミングで新しいのにしてくれたんだ。
ただ汗でパジャマが気色悪い。
人の気配も感じるし着替えを手伝ってもらおう。
可能なら体も少し拭きたい。
「お姉ちゃん。忙しいところごめんね。ちょっと着替えたいんだけど」
「え!さすがにそれは!」
お姉ちゃんとは思えない高い声とハイテンションな返事。
体を起こして目を拭ってその人をしっかり確認する。
「いくら甘えん坊だからってそれはダメですよ!まだ結婚前なんですから!」
「き、喜多ちゃん!?いつからここに!?」
突然頭が冴え渡る。
お姉ちゃんだと思ってた人は私の恋人でバンドの後輩の喜多ちゃんだった。
「ずっといましたよ」
「いつから!?」
少なくとも寝る前はお姉ちゃんがいたはず。
「そうですね。大体2時間くらい前ですかね」
2時間前…と言われても。
スマホをあまり触っておらず、時計も見てなかったから時間がよくわからない。
「そのおでことパジャマかわいいです」
今の私の前髪はお姉ちゃんによって雑に一つ結びにされており、まるでくじらが潮を吹いているようにピーンと立っている。そしてオープンとなったおでこには冷感シートが貼られている。
ずっと寝ているから前髪以外の髪もボサボサ。
お姉ちゃん曰く「外す時に髪の毛引っ張ると痛いから」この前髪にしたらしい。
普段喜多ちゃんと泊まる時には一応よそ行きのブランド物のきれいなパジャマを持っている私。
今は当然それではなく、着慣れたノーブランドの動物柄のパジャマだ。
言わば、完全オフもオフな状態。
喜多ちゃんは頬に両手を当て照れたような仕草を取る。
何で喜多ちゃんが恥ずかしそうなんだか。
2時間も私の面倒見てくれてるのか。申し訳ないな。
あれ?でも私、体感としては2時間も昼寝はしてないんだけどな。
…てことは!まさか!ちょっと前のストローで飲み物飲ませてくれたのは!
「あれもしかして喜多ちゃんだったの!?」
てことは!飲み物飲ませてくれた後のリンゴも!
「リンゴも!?」
「はい!私です!ストローは100均で買って来ました。リンゴも切りましたし、氷枕も変えておきましたよ。先輩かわいかったです。私と店長を間違えて『お姉ちゃん』って呼んで。飲み物飲んでるときの口のすぼめ方もかわいかったし、リンゴモグモグしてるときもかわいかったです!」
………………恥ずかし!
すべてが恥ずかしい。
前髪もパジャマも!
甘えたのだって実のお姉ちゃんと言う、関係性的にも年齢的にも上の立場だから甘えてみたのに!
私はバンド内ではファンから『ママ』と呼ばれるほどのしっかり者として知られている。
その私がまさか年下にあんな甘えた態度取っていたなんて…。
「いるなら教えてよ…」
「きちんと部屋に入るときに『お邪魔します』とか飲み物とかリンゴのときは『伊地知先輩あーん』とか言ってましたよ」
…どうやらお姉ちゃんがいるという先入観やボーッとする中で私が声をうまく聞き取れてなかったようだ。
しかし普段から気を利かせてくれる喜多ちゃんなら飲み物にストローが刺さっていたのも、リンゴが一口サイズだったのも、氷枕が新しくなっていたのにも納得がいく。
「そう言えばお姉ちゃんは?」
勘違いの原因ともなった人物はどこへ?
「私が来た時に何かの業者の人が来てその対応に行ったのと、買い物に行くと言ってました。だから私が看病してました」
「まあ、ありがとう」
とりあえず素直にお礼を言う。
「バンドは?バイトは?」
「バンドは先輩が休みなので早めに練習切り上げました。バイトは私今日は元からありませんし」
「そっか」
音、全然聞こえなかったな。まあ、聞こえたら聞こえたで防音設備的に問題あるか。
そうだ。喜多ちゃんは元々今日はバイトなかったんだった。
いつもなら把握してるのにな。
「ところでどうしますか?」
「どうするって?」
「着替えですよ。張り切って手伝いますよ!」
「いや、自分でやるからいいや」
目を輝かせる喜多ちゃんをかわすように私はベッドから立ち上がる。
「おっと」
トイレ以外では基本的に寝て過ごしてるから体が鈍っておりふらついた。
「危ない!」
「ありがとう」
咄嗟に喜多ちゃんが私を支えてくれる。
ドキッとして体が熱くなるのを感じた。
きっと今ある熱だけが原因じゃないな。
「もう。危ないですから。場所だけ教えてくれれば私が着替えとかタオル持って来ますよ。…」
思わず喜多ちゃんと顔が近くなる。
この距離感、空気、静かになった喜多ちゃん。
いつもなら私は少し顔を上に向けて目を閉じる。
すぐに喜多ちゃんの唇がフワッと触れるようなキスをするけれど。
「…先輩」
「ま、待った!」
今日は待ったをかける。
「なんですか?」
「私今風邪引いてるから!移すといけないからだめ!」
「いいですよ。先輩の風邪なら大歓迎です。それに散々同じ空間にいるんでもう移ってるかもしれませんし」
「風邪に大歓迎とかないから!」
「それに私が風邪引いたら次は先輩が看病してくれますよね?」
「そんなことになったら風邪お互い終わらないから。お母さんにでもしてもらいなさい」
「ええー?とにかく!今はキスしたいです」
眉間に皺を寄せる喜多ちゃんにわがまま!と言いたいところだけど。
そう言えば元々の予定では今日の夜ご飯はデートも兼ねて2人で外に食べに行くはずだった。
私がドタキャンした形にはなるから少しでも望みは叶えてあげたいけど。
さすがにダイレクトに風邪を移しそうな唇同士のキスは今は抵抗あるな。
「せーんぱーい」
働かない頭を必死に動かしている私のことなど知る由もない喜多ちゃんからはキスをせがまれる。
喜多ちゃんをとりあえず収めるためのいい方法ないかな。
私は自分の人差し指を自分の唇に当てる。
そしてその人差し指を次は喜多ちゃんの唇に当てる。
「喜多ちゃん。いい子だから今日はこれで我慢して?」
言わば間接キスをしてみる。
この前ドラマでこのシーンを見たんだ。
喜多ちゃんは私の上目遣いに弱いからなるべく上目遣いで。
「もう!どこでそんなかわいい仕草覚えたんですか!」
思いつきだったけど効果は抜群の様子。
「まさか他の人にやってたりしませんよね?」
ホッとしたのも束の間、私を支える喜多ちゃんの手に力が入る。
「やってないよ!」
「本当ですか?」
「本当!信じて!」
体調がいいとは言えない状況でわざわざ嘘を着く必要もないと思うけど。
ジーッとこっちを見る喜多ちゃんの目を真っ直ぐ見つめ返す。
「…わかりましたよ」
「本当?」
「ええ。先輩いつも嘘ついてたり後ろめたいことあると目逸らすんですもん。今日は真っ直ぐ見て来たんで本当のことですね」
思わぬところで自分の癖を知る。
今度からは気をつけておこう。
私は喜多ちゃんの力を借りてベッドへ、私をベッドに戻した喜多ちゃんはベッドサイドに戻る。
「とりあえず着替えは今はいいや。お姉ちゃん帰って来たら手伝ってもらう」
「…そうですか」
視線を下に落としあからさまにガッカリと言った表情は心に来る。
「じゃあ先輩が元気になった時のデート先決めましょう!」
と心配したのも束の間、いつものテンションに戻る喜多ちゃん。
「うん。そうしようか」
*
「虹夏ー、喜多ー帰ったぞー」
喜多ちゃんとデートプランを練り始めて少しして、お姉ちゃんが帰って来たと知らせる声が聞こえる。
「帰って来ましたね。それでは帰りますね」
「うん。ありがとう」
さっきまでは多少あれこれ駄々をこねていたけど、理解さえすれば喜多ちゃんは行動が早い。
ササッと荷物をまとめるともうドアの近くにいる。
「ねえ」
「なんですか?」
「もう少しいて」なんて普段は言わないことが口から出そうになる。
たぶん風邪で弱ってて人肌が恋しい。
人肌が恋しいと言っても誰でもいいわけじゃない。
今ならお姉ちゃんじゃなくて喜多ちゃんがいいと思ってしまう。
「…ね、ねえ」
「どうしたんですか?」
なかなか次の言葉を発さない私に喜多ちゃんが少し近づいて来る。
「あの…あのね」
再びベッドサイドまで来た喜多ちゃんの制服の裾を少し掴む。
「あと、あと10分だけいて」
*
今日はバンド練習からのご飯を食べるデート予定だったけど体調不良なら仕方ない。
風邪が移るからと店長に追い返されるかもと思いつつ、ダメ元で先輩に会いに行った。
案の定追い返されそうだったけどタイミングよく業者が来て店長の代わりに看病する口実で先輩に会えた。
普段もバンド内では比較的元気いっぱい!でハツラツとしている先輩が弱っている姿はちょっとだけかわいく思えた。
帰る間際の裾を掴まれたのもとてもかわいかった。
結局帰るの30分延長しちゃったし。
いろいろと思い出す中、やっぱり1番鮮明に思い出すのは先輩にされた間接キス。
体温が上がるのを感じた。
「風邪、やっぱり移ったかしら」
手で自分の顔を扇ぎながら帰路に着く。