逃げたギターという言葉は、私の十字架である。
「貴女だけが結末を知る世界」「私が貴女を知らない世界」
どんな出会い方をしても元の鞘に収まる……ならばこの想いを伝えたとして、必ず泡沫に消える日常に意味などあるのか。
卸したてのギターを背にSTARRYのネオンを潜れば、何処か懐かしい金色の残滓に目を泳がせる。
そこで出会う貴女は、今思えば最初から私の事を諦めていたように思う。
また会えると約束しましょう。指切った。
逃げたギターという言葉は、私の十字架である。
リョウ先輩の演奏技術やルックスに惹かれていた私は、彼女のバンド解散を以って悲嘆に暮れていた。また路上ライブを始めるのだろうか。であればお小遣いの原資が限られる学生となれば、ライブハウスに通うよりもお金が足らない。会場すら分からないのだから、夜な夜な主要な駅を梯子する事になるから圧倒的に非効率であるからだ。
そんな想い相手が再びバンド活動を始めた。それもメンバー募集という劇薬も引き連れて。楽器屋さんに初めて足を運んで、少し上背のあるギターを購入した。ローン30回というハードルは、親からの記名を偽装する形で捺印して踏み越えた。
問題はその後だ。世間一般でいうギターの音が出ないのだ。インターネットやSNSが発展しているこのご時世で、動画通りに抑えて弦に引っかけても巧くいかない。それでもギター枠は激戦区というのを鵜呑みにして、基礎すらできてもいない状態で加入の申し込みに行った。
今までもSTARRYには、観客として何度も足を運んでいた。その営業時間外に顔を合わせる事に。そこで私は麦畑を駆け抜けるような金色に出会ったのだ。
「私の名前は伊地知虹夏。よろしくね、喜多ちゃん」
リョウ先輩の話を聞く限り大層バンド活動に入れ込んでいるらしいが、まるで私の心の奥底を見透かしているようにはにかんだ。これが彼女との最初の出会い。
「辛い事があったら逃げたって良いんだからね」
そう呟いた表情は、何処か物憂げで。寂しくて。誰にも気付いて貰えない迷子の顔をしていたように思う。彼女からしてみれば、活動は順風満帆と見えたのだろう……渦中の私を除いてだが。
迫るタイムリミット。併せの練習には予定が合わないと嘘を吐いた。ライブ当日になって、ごめんなさいの一言も切り出せなかった。居た堪れなくてグループからのメッセージも未読無視を繰り返した。喜多郁代は望まれた役すらこなせずに界隈から消えたのである。
安否の気遣いと思われる通知も暫くすれば来なくなった。それもそうかと黒歴史に蓋をする。誰も彼もが暇な訳じゃない。バンドデビューを性急にと心がけていた彼女であれば、気分を切り替えて次の相手を探している頃だろう。そんな中、ふとイソスタを見れば1件アクションが来ていた。
『NIJIKA IJICHIさんがあなたをフォローしました』
何とも名残惜しいような感傷だ。私には出来なかった。夢を叶えられなかった不届き者にここまで落ちぶれても覚えようとしてくれるだなんて。下北沢の大天使か? あの先輩は。
とはいえ、人間関係のリセットなんて当たり前だ。幸い私はコミュニケーション能力はある方だと思っているし、快活な伊地知さんも同様に違いない。きっと新しいメンバーが見つかっている筈。
であるからして私はクラスメイトと代償行為のようにカラオケに行ったり、自宅で鳴らせもしない楽器を手に物思いに耽った。そんな中で、別のクラスにギターを背負って奇行を繰り返す同級生がいるらしいと噂を聞いた。
階段下の空間。予備の机やら椅子を置いてあるジメっとした辺りに、桃色の髪が揺れていた。悲哀を謳う旋律が琴線に触れる。彼女の周りだけが、特別な何かで囲われているような錯覚。そこについ私は踏み出していた。
「後藤さんギターうまいのね。バンドでもしてるの?」
「あっいえ……」
話を聞くと、高校デビューの折りにギターを持ち込んでも周囲の反応は芳しくなかったらしい。それは興味という訳ではなく、後藤さんを見た2組の子達が遠巻きに見ている様子が想像に難くないのだが。とはいえ、私にとってはチャンスでもある。
「後藤さんがギター教えてよ。私の先生になって?」
「え”!? あっ」
「今度こそちゃんとギター弾けるようになって、前のバンドの先輩達に謝りに行きたいの……」
渡りに船だった。あの時はごめんなさいと。その一言を伝える為だけに労力を課すのは、我ながら馬鹿げているだろう。それでも伊地知さんの熱い視線には、いつか真正面から向き合わないといけない。何故かそういう気がしたのだ。
そんなこんなで師範役を確保した私は、持ち前のコミュ力を活かして公民館の時間貸しに踏み出すのだった。むしろ、この思い切りを何故今までギターの練習に注ぎ込まなかったかは本当に謎である。
「何かボンボンって低い音がするのよね」
「えっ。それベースじゃ……」
「私そこまで無知じゃないって、ベースって弦が4本の奴でしょ?」
「弦が6本のとかもあります……」
閑話休題。私はギターではなくベースを同級生から教わる事になりました。気を取り直して椅子に腰掛ける。
「ベースは基本的にコード弾きが向かないんですよね」
「コード?」
「えっと、俗に和音って言うんですけど。音楽の先生が気をつけ・礼・直れってやるじゃないですか。私も理論までは分かってないんですけど……」
曰く、同時に音を出しても自然な組み合わせを言うらしい。この場に置いては、通常のベースであれば最大4本の弦を同時に弾く話に置き換えられる。6弦ベースはちょっと違うらしいので割愛だそうだ。
「ローポジとか開放弦とかすると、ベースのストローク演奏は音がブレるんですよね。なので、ボディ側のハイポジが殆どです」
全然ちんぷんかんぷんなんだけど。私が小首を傾げたので、後藤さんが慌てふためく。
「ローポジとハイポジって言うのは、12フレットを一周として……ってすみません。専門用語ばっかりで……つまりギターと違って、ベースは単音弾きが基本なんです」
搔い摘んだ情報で何となく分かった。そもそもギターとベースでは、根本的に演奏方法が異なるのだと。
「御免なさい。元々はギターを教えて貰うって話だったのに」
「いえ。音作りで齧った事もあるので、人並みくらいですが」
そんな最悪の船出から私のベース練習はスタートした。その後もひょんな縁で学校でバンドに誘って貰う事になったり、実力も底上げが実感できた。所謂スタジオ練習が軌道に乗るまでは半年程度かかったが、それでもそれなりに演奏技術も身についてきた。
もう春先の何もできなかった自分とは違う。そう己を騙して見ないフリをしていた。彼女と再会するまでは。
「……逃げたギター」
バンド仲間に誘われてわざわざの遠出。お茶の水や秋葉原の楽器店まで足を向けたのが運のツキだったのだろうか。呆然とこちらを見る伊地知先輩の姿に、胸の奥を五寸釘で抉り回されている気分になる。他のメンバーが個人の買い物を済ませる為に一時解散していた事だけが幸いだった。
「お久しぶりです……伊地知先輩」
「そう……だね。久しぶり、喜多ちゃん」
唐突なコンタクトで思考がショートする。いつかこういう日が来るかもしれないとは分かっていた。しかしありえないとも高を括っていた。それが今なのだと。今までどうしていましたなんか聞ける訳がない。唯々口を噤むだけだった。
「あの時は申し訳ありませんでした」
そう赦しを請えば良いのだろうか。やらないよりはマシだと、私は下げる価値もない軽い頭を精一杯傾けた。
「もう終わった事だけどね。あの時は……まぁギリギリな状況だったけど、何とかバンドは続いてるよ。喜多ちゃんはどうなの?」
「私はクラスメイトにベースを教えて貰ってます。ライブなんてまだ先ですけど、先輩達にお詫びできるように練習は頑張って……」
「謝られる事なんかあったっけ」
唐突に会話を遮られた。節々には優しさを感じる労いを以って。
「ベース、似合ってるよ。きっと喜多ちゃんも頑張って練習してるんだろうって、いつか会えるかもって私もバンド続けてたし。まぁ、連絡くらいは欲しかったかな。お姉ちゃんにはめっちゃ怒られたし、計画性がある行動をしろってね。でもそれで今のバンドがあると思えば、安い物なのかなぁって思うけど」
所謂、勉強になったって奴と彼女は笑い飛ばす。
「でも、それはそれだよ。あの時にバンドが組めなかったとしても、一緒に演奏したいなって感情は消えないから。そういう意味では喜多ちゃんの事が頭から離れなかったって思う」
初めて会った時のような初対面を値踏みする表情とは雲泥の差。瞳は何処か怯えていて、口角は寒空に晒されているように震える。ポケットからスマホが滑り出て慣れた手つきで通話ボタンを押し込むのを、私はただ目で追う事しかできなかった。
「お姉ちゃん。次のライブの話なんだけど、確か枠は空いてたよね? 紹介したいバンドがいてさぁ………………うん、そう。確定まだだけど抑えといて。ノルマはその分ウチらが多めで良いよ。それじゃあね」
やりきった表情で伊地知先輩がこちらを見る。ポシェットから取り出したチラシには、日付とイベントの告知文字が踊っている。彼女の眼がこちらを貫く。
「勝手に話を進められても困ります」
「そういう事言うんだ。喜多ちゃん」
また逃げるんだね。その言葉が私の手足を縛り付ける。十字架に磔にする為に大釘を打たれているのとまったく同じ。そんな硬直した身体を氷解させるのは、添えられた細い指。
「あの……喜多さん。どうしました? まさか……地下アイドルの勧誘だったり……」
人見知りだから後ろで遠巻きに見守っていたらしい後藤さんが、縋るように私に飛びついておずおずと口を挟んでくる。
「初めまして! 下北沢駅前のライブハウス、STARRYの者です。よろしければ、ウチのイベントに出演してみませんか?」
「所謂……スカウト……対バンとかみたいな感じですかね?」
「えぇ。おねぇ……店長とは懇意なので、ある程度融通が利くんですよね。これも何かの縁だと思って、喜多ちゃんにお声かけしたんです」
演奏がようやくという状態で、真正面に向き合えと。技術的にも精神的にも劣っている私達がマトモにやり合える相手ではない。
「やりましょう、喜多さん。私達の実力なら、ライブハウスの人達とだって遅れをとる事もないです!」
もっと自信を持って下さいと付け加えられたが、後藤さんもミーハーな所があるし内心舞い上がっているのではないだろうか。
言葉一つで踵を返した伊地知先輩。合流したバンドリーダーは、事情を説明したら頭を掻きながらも了承してくれた。渡された名刺を受け取ると、だってあの人の妹なんでしょという不吉な台詞が頭の中を反芻したのが印象的だった。
それからは目まぐるしく時間が進んだ。指定されたライブの日。STARRYと書かれたネオン看板を横目に重厚なドアを開ける。年度初めに潜らなかったその入り口は、私を圧縮するように空気ごと飲み込んでいく。
心は此処にあらずで、スケジュール通りに演奏が続いていく。次はいよいよ私達の番。リハもなしでのぶっつけ。これについてはなるべく会場に立ち寄りたくなかった個人的な希望を汲んでの事である。
暖気された真空管アンプに相棒を接続する。慣らしでスラップする度にベース独自の低音が会場を駆け巡る。後藤さんのソロ弾きから始まったカバー曲。私は中央でリードギターのうねりに乗りながらも熱唱する。
やり切ったと言わないまでも、終えた所で大きなミスはない。それがこのライブハウスという場で通用するかはさておき、全力をぶつけるに至ったのだ。残すはあと2曲。MCなんてものはやった経験もないので、この道が少しは長いリーダーに席を譲った。
「1曲目、聞いて頂きありがとうございます。いつも私達はギター2本とベースボーカル構成なのですが今日はご厚意に甘えてドラムでヘルプ頂きます。結束バンドの伊地知虹夏さん!」
音響の演出だろうか、はたまた観客からの声援か。会場の熱波がステージに吹き荒れた。スポットライトの先には、学生服を着た伊地知先輩の姿がある。結束バンド。下北系事情にあまり詳しくない私だって、各所でライブのミニポスターを見かけるくらいは有名なのは知っている。
そのドラマーが伊地知先輩だったなんて。最初からうちのリーダーはグルだったと言う事か。すっと前に出てオーディエンスに笑顔を振りまいた彼女が、ドラムへと向かうすれ違い際に耳元で囁いた。
「今度は逃がさないからね。喜多ちゃん」
私にとっての脳漿を揺らす甘美な毒のように、罪は加速する。自分にとっての十字架は決して消える事はない。
ライブの打ち上げでもその楔が私に縛りを課す。こういう時にアルコールを呑めたらどれだけ楽だっただろうか。三つ編みでパック酒を片手に絡む酔っ払いを横目に私は黒烏龍を流し込んだ。
リョウ先輩には郁代と声をかけられて有頂天になっていたが、それはそれ。こんな当て擦る様な名前であっても、自分が好きか嫌いかは別問題だ。宴もたけなわと言わないまでも十分な時間帯。ふと一人足りない事に気付いた。
「あっちょっと私、お花を摘みに」
財布の入ったポシェットを肩にかけて立ち上がる。受付の店員にひと声かけて扉を潜れば、季節通りの寒空が広がっていた。道路の縁石に腰を下ろし、表情が見えないように項垂れる姿がある。名前を呼ぶべきかと迷っている間に伏せたまま彼女は答えた。
「最近はもう夜は涼しいねー。なんちて」
「え……? と、そうですね」
こんな時にどんな返しがベストなのだろう。手持無沙汰の私は、あくまで隣にいる事しか選択肢になかったのだ。そうして暫くしていれば肌も冷える。鼻の神経を刺激するものもないのにくしゃみを一つ。まるで焚火が徐々に消えていくような錯覚もある。それが居た堪れなくて私から切り出した。
「あーっと、もうちょっと明るい所に行きませんか? 伊地知先輩?」
そう言って彼女の手を取った瞬間に跳ね除けられた。ふと目が合えば、その双眸は赤く濁っていた。
「ダメッ! 喜多ちゃん!」
明らかに怯えが混じった表情でこちらを見る。圧倒された私はただただ呆けるしかない。
「あっ……ごめん。急に大きな声出しちゃって」
彼女は間の悪さを誤魔化すように、立ち上がって近くの自販機へ。差し出された缶ココアを受け取るが、それ以上に彼女の手が真っ白だったのが印象に残った。
「いや……その。放っておいて欲しいって意味じゃないよ? 昔さ……大切な人が事故に逢っちゃってね。車の交通量が多い所は避けるようにしてるんだ」
だから連れ出そうとされてビックリしただけ。そう彼女は頬を掻いた。
「いえ。私も気が利かなかったです」
「謝って欲しかった訳じゃないんだけどなぁ~」
プルタブを逆側に捻った音が寒空にただただ虚しく響く。
「喜多ちゃんはさ。今のバンドでやりたい事ができてる?」
質問の意図が分からないと首を傾げれば、慌てて弁解するような素振りを見せる。
「春先に私達、バンド組もうとしてたでしょ? まぁ……色々あって頓挫しちゃった訳だけどさ。喜多ちゃんはリョウと会うのが目的だったみたいだし、私が知ってる喜多ちゃんだったら、音楽続けてたのが意外っていうか」
何かモチベーションでもあったの? そう問いたげな視線は未だに泪の跡を曳いていた。
「最初は謝ろうと思ったんです」
不純な動機で近づいた。楽器が出来ると偽った。曲の合わせを無下にした。それに少しでも報いれるように頑張った。それすら諦めたら、私の中では負けだったから。
「せめて同じ土俵には立ちたかったから。リョウ先輩がどんな景色を見てたのか。それくらいは背伸びしたって罰は当たらないんじゃないかなって」
その懺悔を聞いて瞑目した伊地知先輩は言葉を紡ぐ。
「覚悟はしてたけど、やっぱり眼中にないって分かるとショックだな……」
「先輩?」
「あーうん、こっちの話」
私だけ舞い上がっちゃって馬鹿みたいだと息を吐いた。
「いつかチャンスがあるかなって繰り返してるけど、これはこれで堪えるなぁ……」
只でさえ問題が山積みなのにと彼女は頭を抱える。
「私はさ、人生が綱渡りのようなものだと思ってる」
一体、何の話だろうか。奇跡によって繋がっているって事?
「喜多ちゃんがバンドから逃げるのは分かり切ってたし、縁があればこうして会えると思ったんだ。生きてさえいれば、それ以上は何もいらない」
それ以外要らないんだよ。血を吐くような叫びがあった。
「元気じゃなくたって良い。ズタボロでも生きて欲しい。私と一生会えなくたって良い」
まるで告白みたいだと。口には出さなかったが、きっとお互いに感づいていた。
「でも、伊地知先輩は見つけてくれたじゃないですか」
「まさか山手線の内側とは思わなかったけどねぇ。イソスタでアタリは付けてたんだけど、全然下北沢で見かけないから、一体何処行ったんだって思ってたよー」
「まぁ駅前というかライブハウスとは無縁の生活でしたし、STARRYにだけは近づかないように決めてましたから」
「さいですか……」
そう諳んじれば、今度は索敵範囲を変えると言い出した。さらっとエネミー判定されて私は肩を落とす。そんな私を慮ったのか、伊地知先輩はわざとらしく話題を変えようと試みる。
「えーっと、喜多ちゃん? これで晴れてバンドデビューした訳だけど、喜多ちゃん達はこれからどうするの?」
「先輩たちほど本格的なバンドじゃないですし、このままフェードアウトかなぁと」
実際問題、先輩方に成長した私を見せるというノルマは達成された訳で。それにバンドリーダーは今年で高校を卒業する。後藤さんとはまだ先が長いが、人見知りの彼女がこれからも対外的な音楽活動に積極的かと言われれば答えはNO。彼女風に言えばムムムムムムムムリである。
「伊地知先輩も三年生ですよね。学校は卒業しちゃうますけど、バンド活動は続けるんですか?」
「リョウはそろそろオリジナルソングをやりたいって言ってるし、作詞大臣は絶賛募集中なんだけどねー」
「でしたら、後藤さんはいかがですか? 確か先輩達はギタボ一人ですし、音楽に厚みが出てお似合いだと思います!」
後藤さんも自己表現の練習として作詞ノートを何度か見せてくれた。ちょっと暗いかもしれないけれど、私好みの作風だ。万人受けをするかはともかく、リョウ先輩がメロディを卸してくれればきっと良い曲になるに違いない。
「そしたら喜多ちゃんも手伝ってくれると嬉しいんだけど」
「うーん……と。それは難しいですよ先輩?」
だって、私がいたらリョウ先輩達と役割が被りますから。そうあっけらかんに言う。それに対して酷く傷ついた表情を返してくる。
「え…………ぼっちちゃんが来るなら喜多ちゃんもやらないの?」
「仮にボーカルに集中ってのも手ですけど、そうまでして厄介になる訳には行きませんし……」
それに私は一度逃げ出した人間だもの。そんな人がいちゃ駄目です。そうボソリと吐けば、私以上に伊地知先輩が狼狽える。
「ごめん……私はあの時の事は何とも思ってないから……」
「でも、それじゃあ私の気が収まりません」
先輩の善意に甘やかして貰えるのは、今夜だけでもお腹が一杯です。そうストレートに伝えれば、彼女はキツく唇を結んだ。
「そしたらさ……今度はお客さんとしてSTARRYには来てくれないかな?」
「リョウ先輩分のノルマっ? 貢ぎたいッ!」
「爛れた関係が爆誕しそうなんだけど……」
何やら先輩からの視線が冷たい。とはいえ、私たちを纏う冬の風と比べたら大した事はなくて。
「でも。こうして伊地知先輩に謝れたので、私はもう満足なんですよ」
「私は不完全燃焼なんだけどなぁー」
「それなら、きっとまた会えるって約束していいですか?」
口を尖らせる伊地知先輩に私は小指を差し出した。
「約束しましょう! 次のライブは特等席で見せて下さい!」
一緒にバンドがやりたいという告白を自分から蹴りながら、お友達ではどうでしょうとは何とも薄情な女である。けれど、コレで良いのだ。私と先輩ではきっと釣り合わない。それこそリョウ先輩や後藤さんのように、音楽活動に精を出すバンドマンの方がお似合いだ。
「私じゃなくて本当はリョウと話がしたいでしょ?」
「えー……まぁそういう気持ちもありますけど」
「喜多ちゃんはいっつもそうだね…………本当にズルいよ」
鼻を啜りながら彼女も小指を私に合わせる。
「状況は違えど、必ず指切りするんだなぁ……また会えるって」
「また会えますって。私たちは運命の黒い糸で結ばれてるって何かの本に書いてありました」
そんな黒い糸は嫌なんだけどと彼女が笑った。そして名残惜しそうに離した手に視線を落とす。そろそろ戻りましょうかと声をかける。相槌を打つ彼女が何かを言おうとして口を開けた。その瞬間だった。まるで私たちの関係を裂くように世界が割れたのが。
「地震!? 結構揺れてるけど大丈夫きた……」
その言葉を最後まで聞く訳には行かなかった。隣の建築現場の上階でけたたましい金属がぶつかり合う音。運が悪く傾斜したのか、それが猛スピードでこちらに転がり落ちていくのが見上げれば分かった。
道路側には身構える伊地知先輩。その態勢から逃げるには位置が本当に悪かった。であれば私の判断は、彼女を一刻も早くこの場所から叩き出す事。背部のパーテーションが軋んだ瞬間、必死に手を伸ばして彼女を突き飛ばす。
暗転。脳裏に火花が散る。額を打ち付けたが痛みはない。いや、じわじわと全身を蝕まれていく自覚がある。目が必死に光量を求めるが、その過程で分かった。きっと地面と障害物で身体がサンドイッチになっている事に。
スマホは……取れない。というよりはもう手が動かない。助けを呼ばなきゃ。手で触れればパスコードの解除なんて見なくたってできるのに。
経験がなくたってこの状況が如何に不味いかは分かる。正常な思考判断であれば痛覚がパンクしているであろう。だがそうならない程に、私は…………もうダメなんじゃないかな。
「喜多ちゃん!? 喜多ちゃんッ!」
きっと瓦礫を掻き分けて来たのだろう。所々に血が滲んだ両手で伊地知先輩が滑り込んでくる。
「せん……ぱい……わたし……」
「大丈夫だよ喜多ちゃん! すぐ救急車が来るからッ! お姉ちゃん手伝って!」
滲む視界の中で、後藤さんやリョウ先輩。STARRYの店長さんが見える。その誰しもが遠巻きにビクリと反応するのを見て理解してしまった。きっと私は相当酷い状態なのだろう。
「虹夏ッ! これ以上は危ないッ! お前も巻き込まれ……」
「だからって喜多ちゃんを見捨てて良いなんてできないッ! 今度こそ……」
お願いだからもう私の前から消えないでよ。逆光だが双眸から更に泪が零れたのが分かる。そんな顔をしないで下さい。元はと言えば、私が先輩を裏切ったのが原因なんですから。それに……。
「……だか……んど……も……あっ……うよ」
もう声すら出ない。それでも私は……。まだ左手が……動く……。ここから這い出るのは厳しいのは分かっている。けれど、小指一つくらいなら……。伸ばされた先輩の指に触れる。その熱が恋しい程に温かい。中指と小指だが仕方がない。
私は胸の中で祈る。嘘ついたら……いや、やっぱり何処かで出会ってもきっと私は貴女に嘘をつくのだろう。その時は針千本飲ませてください。きっとこの痛みよりも辛い事を貴女にさせているのだから。
「うんうん! 喜多ちゃんの声、聴こえてるよ! だからッ!」
「やく……そく……で…………」
「今度もちゃんと見つけるから! お願いッ!」
その一言に救われた。嫌われてなくて良かったと思って、私は目を閉じたのだ。
「うん。約束したよ、聞こえてるよ! だから……」
もう私の前からいなくならないでと闇夜に慟哭が響く。意識が消え失せる前に、最期に聞いた言葉は私に後悔しか残さない。
「さよならなんて言わないでよッ!」
さよなら。私を待ってくれる人。そうして私は役割を終えたのだ。
†
逃げたギターという言葉は、私の十字架である。
リョウ先輩の演奏技術やルックスに惹かれていた私は、彼女のバンド解散を以って悲嘆に暮れていた。また路上ライブを始めるのだろうか。であればお小遣いの原資が限られる学生となれば、ライブハウスに通うよりもお金が足らない。会場すら分からないのだから、夜な夜な主要な駅を梯子する事になるから圧倒的に非効率であるからだ。
そんな想い相手が再びバンド活動を始めた。それもメンバー募集という劇薬も引き連れて。楽器屋さんに初めて足を運んで、少し上背のあるギターを購入した。お父さんにお小遣いとお年玉を2年分前借りして踏み越えた。
問題はその後だ。世間一般でいうギターの音が出ないのだ。インターネットやSNSが発展しているこのご時世で、動画通りに抑えて弦に引っかけても巧くいかない。それでもギター枠は激戦区というのを鵜呑みにして、基礎すらできてもいない状態で加入の申し込みに行った。
今までもSTARRYには、観客として何度も足を運んでいた。その営業時間外に顔を合わせる事に。そこで私は麦畑を駆け抜けるような金色に出会った。
「リョウ……ちゃんと言ったよね。バンドメンバー誘う時には声をかけてって」
「それで人が来た試しがない。昔から虹夏は過保護なんだから」
憧れの先輩と一対一の状況で舞い上がっていたのだが、口を挟んできたのは天頂に独特のアホ毛が揺れる女性。大人の余裕とやらを醸し出しながら、片手を机に軸としてこちらを覗き込んでくる。ライブハウスの経理担当だと話す彼女は、まるで私の心の奥底を見透かしているように口を尖らせた。
「どうせいなくなるんだろうし」
ギクリと身を竦ませる。楽器を買ったばかりの初心者だと既にバレている? そんな一目で分かる様な落ち度があっただろうか。まだ此処に来て殆ど口を開いていないというのに。
「リョウ。この子の楽器を見てどう思うの?」
「……ベース兼用のギグバッグ」
「うぇっ!?」
私が大枚叩いて買った楽器がベース!? そんな馬鹿な。
「ベっ、ベースって弦が4本ですよね!? これ6本ですッ!」
「……もしかして多弦ベース」
タゲンって? 頭がちんぷんかんぷんな私に、経理を名乗る女性は店の奥から備品のギターを持ってくる。慌てて私も楽器を取り出せば、明らかに上背が違うと認識した。もう恥ずかしさで顔から火を吹きそうである。
「それで……楽器を間違えちゃう初心者ちゃんと、リョウはこれから仲良しバンドをやりたい訳?」
いやはい、誠に申し訳ありませんでした。一刻も早くこの世から消し去りたい。そう穴に入ろうとした所でストップがかかる。他でもないリョウ先輩からの援護射撃。
「虹夏の悪い癖が出てる。舌足らずに早口な時は、考えてるのと真逆の事を言いたいって」
「…………うっさい」
かなり年齢が離れているように見えるが、二人は幼馴染か何かか? もう以心伝心のように見える。
「虹夏は昔から遊び相手」
「保護者の間違いでしょーが!」
「私以上に子供っぽいのに……」
こいつーと梅干しグリグリをするが、リョウ先輩は意にも介さない。それどころか両手でVサインを蟹のようにする始末。
「あーもう、馬鹿らしくなってきた。伊地知虹夏…………STARRYに来るなら覚悟しときなよ、喜多ちゃん」
彼女の前では名乗っていないのに、唐突に会話に挟まれた。
「えっと……よろしくお願いします…………伊地知……さん?」
この時ばかりは疑問形で返してしまったのを許して欲しい。しかしあれから多弦ベースとやらにいざ向き合っても、私が想定している音が出ない。あれだけ恥を晒したのだから、これ以上恐れる物はないと奮い立つ。開店前のSTARRYのドアを潜れば、先に来ている筈のリョウ先輩の姿はない。
「リョウなら学校で補習じゃない? 悪いけど、今日は私しかいないよ」
うげぇと出かけた声を慌てて飲み込んだ。ファーストコンタクトの時点で、この人からは敵意みたいなのをひしひしと感じているのだが気のせいだろうか。紙コップからは香ばしく漂う珈琲の匂い。机上に二つ出されたものの片割れを手に取って口に含む。
「一杯で五百円」
「…………」
私は抗議の視線を含んだまま財布から小銭を出す。
「冗談冗談。子供からそんな事で金は取らないって」
そうは言いますけど、伊地知さんは初見にも関わらず値踏みしてきたじゃないですか。
「大人になるとねぇ。くだらない切っ掛けで後輩を可愛がりたいもんなんだよ」
「……悲しい趣味の持ち主なんですね」
自分でも口が悪いと思うが、皮肉を込めて舌を突く。
「……そうだねぇ」
ただそれだけ。揶揄うような表情と頬杖をしながら、彼女は私の自主練を眺める。一時間くらいそうしていただろうか。入り口を開ける音と共に靴が床を叩く。
「リョウせんぱ……」
「虹夏……お前、また部外者連れ込んでんのか?」
こちらに呆れた顔を浮かべているのは、STARRYの店長さん。伊地知さんの双子の姉だというが、クールでドライな面は本当にそっくりである。どうやら買い出しに出ていたらしい。ダンボール箱一杯の消耗品をカウンターの縁に並べていく。
「別に良いでしょ。副店長権限」
「掃除と開店準備は?」
「自宅の方も洗濯とお夜食の準備も万端です。お姉様」
この人、癪に触る様な発言しかできないのだろうか。それに深い溜息を吐いた店長さんは肩を落とす。
「自宅用の奴、部屋に運んでくれ。キープは私がやっとくから」
「お姉ちゃんがやれば良いじゃん」
「少しは重い荷物を持ってきた姉を労われってんだ!」
そう言われて彼女は渋々店の外に足を向ける。残されたのは店長さんと私。さっきの配置が妹から姉にシフトしただけ。淡々と練習するベースの音が響く。
「喜多ちゃんさ。虹夏と絡んで大丈夫?」
「…………どうなんでしょうね」
自覚がないというか分からない。そもそも会って日が浅い訳だし、ここまで世話を焼かれるのも煙たがられるのも異常と言えば異常だ。
「アイツ、昔っから達観してるような奴でさ。高校生くらいまではバンドやりたいって年がら年中口癖だった訳よ。それがパッたりとなくなってお互い大学卒業する頃に、いきなりライブハウスやりたいって言い出してさ」
名義の店長は私がやってんだが実質的な経理はアイツだからなぁと、店長さんは紙パックのリンゴジュースを啜った。
「夢を追いかけてって訳じゃないんだろうな。私だってまさかバンド辞めて、真っ当な社会人になるとは思わなかったし」
いくら下北沢と言えど、ライブハウスの経営というのは世の中に溢れる職ではないと思うとは口を窄めた。
「喜多ちゃんはベースやってて楽しい?」
ここで楽しいと言えれば、どれだけ肩の荷が降りただろうか。正直に伝えるべきか。回答に窮していれば、後ろから更に追手が迫る。
「買っちゃったから仕方なくベースやってる訳でしょ。別にリョウとバンドやれれば何でも良いじゃん」
タイミングが悪く上から戻ってきたらしい伊地知さん。よいしょと腰を下ろせば、目の前に風神雷神というか仁王像というか。見た目も麗しい双子の姉妹が並び立つ……おまけに仏頂面で。
「それにフロントマンやるだけならボーカルに集中すれば良いでしょ」
「お前な、ボーカル専が死ぬ程苦労して自己管理してるの知ってるだろ」
「知ってるよ? それだけの覚悟があるなら、喜多ちゃんは楽器なんかやらなくても様になるって話。それかドラムでもやってみたらー、気も紛れるかもよ」
当事者を挟んで姉妹喧嘩になるのはやめて下さい。そう願わざるを得なかった。
「っていうかギター二本ならともかく、ベース二本でバンドって言うのか?」
「ツインベースっているじゃん」
「それは合奏が出来てる段階でだろ!? そもそもギターもドラムもいねぇのをバンドって言うかって話だよ!」
街中でアコギの引き語りとかはあるけれど、メロディがないのは見知ったメジャー曲でもない限り難しい。
「まぁリョウの事だから、売れ線じゃなくて自分のやりたい曲やるって言いそうだし。ギターも弾けるからスイッチするんじゃない?」
「そんな適当な……」
本人じゃないけれど、自分の武器をそうコロコロ変えられる物だろうか。ゲームではあるまいし。
「なら虹夏……お前、喜多ちゃんにドラム教えられるか?」
「藪から棒に何ッ!?」
「お前が最初に言ったんだろうが!」
驚いたのは私もである。両者の揃った反応を見て店長さんが続けた。
「喜多ちゃんはパッと見でリズム感がピカイチなんだよ。だけど弦がどのフレットを抑えれば希望の音が出るかなんて、あまりにも経験不足が響くって訳で。ドラムなら手足が間隔で制御できれば、確実に決まった音を叩き込める」
「リズム感良いからってドラムに向いてるとは思えないけどぉ?」
伊地知さんが意地悪く言うが、店長さんが黙っとれと場を撫で斬る。
「だからお前が先生をやれ。ギターなんてのは世の中ゴロゴロといるんだ。喜多ちゃんが本気でリョウに喰らいつけるなら、何かとドラムの方が都合が良い」
リズム隊はまさしくバンドにおいて夫婦だという。リョウ先輩と私がメオト!? これ以上ない良い響きに一瞬気持ちが揺れかける。そしてそれ以上に動揺しているのは伊地知さん。それが何処か胸の奥がスカッとした。
「私がドラムですかっ、やりますッ!」
「だそうだ虹夏」
「ちょっ……ちょっと待って!? よりによって私が!? レッスン料とかは!?」
魅力的な提案だが、確かに財布が痛い所である。その不安を払拭するかのように店長さんが胸を叩いた。
「喜多ちゃんのベースをウチが買い取る。現金12万でどうだ?」
それなら店舗での値段も含めて十分に納得できる価格だ。
「売りますッ!」
「決断早ッ!?」
伊地知さんは抗議の声を上げるが知った事か。
「その代わり第三者の私が、お前らに縛りを課すぞ。喜多ちゃんは高校2年の卒業までウチでバイトする事。私の目の届く所であれば虹夏がサボらないだろうし……それに、ちゃんと働いた分の給料は出すからさ」
自分のフリーな時間は減ってしまうから、友人とのお出かけは見直さなければ。それでも渡りに船である。
「そして虹夏。やるからには死ぬ気で喜多ちゃんに技術を叩き込め」
「私まだブリーダーやるって受け入れてないんだけどッ!?」
「ウチは12万で喜多ちゃんからベースを買ったんだよ。その分働いて稼げ!」
「お姉ちゃんの横暴ッ!? 大魔王! サタン!」
ん? つまりどういう事だろうか?
「お前ら出会い頭に火花散らし過ぎなんだよ。少しは仲良くしろ」
「さっぱり意味が……?」
「虹夏に教えを請うなら出すもん出さなきゃって事。虹夏もそれで良いだろ? 大事なお客様に粗相がないようにな」
サービスではなく講義は有償って訳ですね。スマホで軽く調べてみるが、楽器の初心者コースって一回あたり4000から5000円するんじゃあ……。背中を冷や汗が伝う。
「入会金や設備費もかかりますよねッ!? 一体いくらで!?」
「………………1時間500円」
「ごひゃ…………ひゃっ!?」
我ながら可愛い声が出てしまった。ゴヒャクエン!?
「12万でベース買った訳でしょ? 2年で24ヶ月。1ヶ月に10時間やれば500円でしょ」
流石、暗算が早い! ……ってそうではなく。本当に良いのだろうか。
「私もプロじゃないし、やってたのは高校までで10年近く前だから。その代わり、喜多ちゃんの実力が私を越えたら契約終了ッ! これ以上は安くしないッ! 返事は!?」
「ハイッ!」
そうこうしている内に、私は成り行きで伊地知さんと師弟関係を結ぶ事になった。別にいつデビューするなんか決めていなかったらしいが、リョウ先輩からすれば腕が鈍らない内に動き出したかったそうだ。あくる日、私は喫茶店でその事について尋ねた。
「リョウ先輩がバンドをやる理由って何ですか?」
熱意ともまた違う感情でもあるのだろうか。そう問うとミステリアスな彼女はこう答える。
「親離れしようと街中をフラフラしてたら虹夏に捕まった。郁代と同じようにやるならベースが良いって言われて」
昔から餌付けされているのだという。伊地知家で夕食を御馳走になるのも珍しくないらしい。
「ちなみになんでそんなに金欠なんですか?」
「金欠じゃない。お金が財布から勝手に出ていくだけ」
それを無駄使いの亡者というのではなかろうか。けれど、私はそんな先輩もワイルドなので貢ぎます!
「そういえば、郁代も大分ドラムが巧くなったよね」
まだ一番基本の8ビートしか安定しないですけどね……。そう弱音を吐露すればよしよしされる。
「ここ数ヶ月で凄く伸びた。褒めてつかわす」
「キャー(⁎˃ ꇴ ˂⁎)ッー!」
先輩に褒められる為なら、例え火の中水の中草の中森の中ですッ!
「……虹夏のしごきに耐えるのが凄いよ。私も店長からギターを習ったけど、本当にスパルタだった」
あの双子は変な所で似ていると言って遠い目をした。
「そういえばリョウ先輩がベースを始めた理由って何ですか?」
「ギターとドラムだけはやりたくなかったから」
最初はともかくあの二人の厄介にはなりたくないと、私にも分かるくらいに身震いをする。
「店長さんと伊地知さんって、二人でバンド組んでたんですかね?」
「店長はともかく、虹夏は趣味の範疇って言ってた。今じゃ勘を忘れないようにって夜な夜な叩いてるって」
これは郁代には内緒にしとけって口止めされてたんだったと、リョウ先輩はわざとらしく手で覆った。
「ちなみに郁代は虹夏の事をどう思ってる?」
いつもの軽口かと思ったが、どうやら真剣な話らしい……クールなリョウ先輩もステキ!
「態度は刺々しいですけど、レッスンは平等だと思います。ちゃんと癖も見抜いてくれて、まるで自分が通って来た道みたいに話をしてくれます……」
「アドバイス通りに動いたらギター担当も見つかった」
そうふと横に視線を流せば、ピンク色のジャージを身に纏った野生のギタリストがひとり。私たち『Tri-Rap』はベースボーカル・ギター・ドラムの3ピースバンドを組んでいるのだ。
「ぼっちがいなかったら、このバンドも始まらなかった」
ぼっち……もとい後藤ひとりさん。私と同じ秋華高校の1年生。2組に奇行を繰り返す女生徒がいるらしいと聞いて、私が捕まえた大切な友人である。
「でも……私を見つけてくれたのって、虹夏ちゃんですよね?」
そう彼女はコーラを啜りながら猫背の状態から視線を上げた。自分の年齢の2倍近い相手をちゃん呼びするのは中々であるが、矯正しようとしてもどうしても駄目で相手も肩を竦めてしまい現状維持となっている。
「うーんと。2組の後藤さん……ってみんな噂をしてたわよ?」
「あの……不名誉で本当に申し訳ないんですけど……ギターを学校でも持ち歩くようになったのは喜多さんが声をかけてくれてバンド活動が本格化してからで……てっきり虹夏ちゃんが知ってるものかとばかり」
「えっ、そうなの!?」
だとすれば奇行はともかくとして、ギターを弾く後藤さんが認知され始めたのはその後となる。
「私は伊地知さんから、秋華校に階段下に一人でお弁当を食べてる女の子がギターやってるって聞いたのよね」
STARRYは私たち以外にも短期バイトをしたり、高校生でバンドデビューをしている人達もいる。そういった面々が気付いてくれたのだろうか。
「下北高のケイさんとかですかね? あの人、色々と情報通ですし……」
「先輩は確かにSTARRYには顔を出してるけど、バンドマンじゃないし流石に他校のぼっちを見つけられるほど暇な人じゃないと思う」
私たちと親交のあるメンバーを一人一人上げていくがキリがない。そんな中で自称名探偵のリョウ先輩が吠える。
「虹夏には未来を予知できる特殊能力がある」
「そんなまさかぁ……」
「あるいはタイムリープをして現世に留まっている」
「そんなまさかぁ……ですよね……喜多さん?」
彼女の発言を受けて、一瞬思考がフリーズしてしまった。いつもなら雑談で流す筈が、どうにも頭の隅に引っかかった。
「リョウ先輩……聞いていいですか?」
「どうしたの急に」
「先輩がベースを始めたのは、本当に自分の意思でですか?」
失礼な質問だとは自覚している。それでも確かめずにはいられない。
「……音楽に興味を持ったのは、両親に左右されない趣味を見つけたかったから。ベースはあの双子と被る楽器にしたくなかったから消去法」
「私がドラムを始めたのは店長さんの提案ですけど、実力を伸ばしてくれたのは伊地知さんです」
ひとつのバンドにギターがままいたってどうにかなる。けれど多くいて所在に困る事と担当パートが欠けているのはまた別の話だ。私たちが三人でバンドを組めるようになったのは、本当にまぐれなのだろうか。
「後藤さんに会えたのは、本当に偶然なの?」
「あ…………すいません。目障りなので消えますね……」
「待って待って後藤さんッ! 自己肯定感低すぎて胞子にならないでッ!」
霧散しようとする彼女を慌てて個体に押し留めて、火照りそうな状況を頭の中で整理する。仮に私がベースボーカルを、リョウ先輩がギターに転向する。これが当初のプランだった筈だ。後藤さんと私たちが出会うのが運命とかカルマとかという言葉で片づけられるのなら……ドラマーは何処に行った?
「ちなみに私は店長が買い取らなかったら、郁代の多弦ベースを買い取る気でいた。それで郁代にはギターを貸す。そうしたら万事うまくいった」
「リョウ先輩(ŏ﹏ŏ。)……」
「それでベースは転売する気でいた」
「リョウさん( ´- ω-`)……」
後輩二人の反応はそれぞれとして、本当に丸く収まったのだろうか。まるでドラマーが欠けた状態でメンバーが揃うなんて。
「バンド名……ちゃんと皆で考えましたよね!?」
「きっかけは……えーっと。あの日は虹夏ちゃんが店内の配線を弄ってて……」
「SICK HACKの廣井さんが割り込んできて……」
「あんまりにも酔っ払いのウザ絡みに『あんたにゃ手錠替わりで十分だぁッ!』って……」
結束バンドで縛ったんだった。誰かの呟きが店内の喧騒に消えていった。
「廣井さんがこれが本当の『飲酒ロック』ってゲラゲラ笑って……」
「私たちは『Tri-Rap』……三人の音楽……タイラップにしようって」
固有名詞に然はあれど、あの出来事が決定打だったのは間違いない。それに舌を滑ったあの言葉が重くのしかかる。
「『結束バンド』……何処かで聞いたような……」
何か大事な物を喪ったような錯覚に陥った。しかし、程なくしてその疑問もふとした切っ掛けで流れてしまう。というよりも、そんなのを気にしていられない位に色々と忙しくなってしまったのが悪い。
1学期の期末テストもそこそこの成績で、お盆ライブのオーディションも勝ち抜いた。皆で江ノ島にも行ったし、秋華祭でバンド演奏もした。
『ぼっちちゃんは絶対にステージ下にダイブしないでね!?』
まるで小姑のように釘を伊地知さんがしなければ、彼女は本気で飛び込もうとしたらしい。これは一言くらい何か言わなきゃと急かした私も悪いけれども。
時は流れ、私は後藤さんの呼び方をひとりちゃんに改めた。ギターヒーロー(?)を追いかける謎の記者に捕まったり、未確認ライオットに向けて練習も本格化した。新宿FOLTでSIDEROSの皆とも出会った。
そんな折に新曲に励もうと悪戦苦闘している中で、ふとしたきっかけでギターボーカルの大槻さんと二人きりで話す機会があった。なぜ私に絡むのかと率直に尋ねれば……。
「別に友達がいない訳じゃないからッ!」
そんな古典的なツンツンデレデレをしなくても……というのは置いておいて。
「『Tri-Rap』だけど、完結しているように見えて何か欠けてるんじゃない?」
「何か?」
「それが分からなくてこっちがむしゃくしゃしてんの!」
大槻さん。悪い人じゃないんだけど、あんまり他人の話を聞いてくれないからなぁ。
「『グルーミーグッドバイ』のMV見たわよ。完成度もクオリティも予選通過できるレベルなのは保証する……」
しかし、続けられた言葉に私は目を剥いた。まるで私たちの暗雲を拭うかのように。
「この曲。まるで貴女が誰かに歌う為のモノみたいじゃない」
この曲はひとりちゃんが書いて、リョウ先輩が仕上げた曲。そしてリョウ先輩が歌う曲の筈だ……筈なのだ。
「作詞作曲組が関わっただけ? 裏でドラムを叩いてれば十分? 貴女の態度はそんな風に見えないけど?」
その発言にカッとなって机をつい叩きつけてしまう。周りの人たちはよくあるぶつけた音程度で意に介さないのが幸いだった。
「これ……山田リョウから見せて貰った新曲の楽譜。ボーカルキーが違うパターンまで考えてたらしいじゃない」
つまり貴女がボーカルから逃げた理由が気になったの。そう大槻さんの目は私を貫いていた。
「私は……ドラムだから……歌えなくて…………」
「世の中にはドラムボーカルは五万といるわよ」
「やっぱりリョウ先輩がやった方が締まるというか……」
「でも後藤ひとりと山田リョウは、貴女が歌う為の曲を作った」
そこから逃げたのは貴女の都合でしょと冷たく突き放す。答えない私に、今度は彼女が苛立ちを募らせて返す。
「三人で誰かに伝えたかったんでしょ! 憂鬱吹っ飛ばせって……グルーミーグッドバイって!」
脳裏に電流が奔る。幾重もの情景。滲む視界に揺れる金髪が。その度に言う別れの言葉も……。ありえない。私たちと同じ世界で見聞きして。共に肩を並べて。ドラマーという席も本来は彼女の物なのに……。
『さよならなんて言わないでよッ!』
不意に彼女の言葉が聞こえた。私の鼓膜に響いて脳髄に奔る。
「伊地知先輩ッ!」
思い出した。私が会いたかった人、会えなかった人。さよならをしてもまた会おうと約束した人。
「大槻さん、ありがとうっ!」
「えっ、ちょっ!? 待ちなさい喜多郁代ッ!」
テーブルに札束を放って飛び出した。あまりの状況にあんぐり口を開けた大槻さんには悪い事をしたが、その暇が惜しい。下北沢の駅前を駆け抜ける。ロインで今から向かう旨を送った。貴女に大切な話があると。謝りたかった。貴女の事を忘れてしまったのを。
STARRYから慌てて飛び出したのだろう。今にも泣きそうな副店長の姿がある。早く青になれ。そう焦る必要もない中で、ひたすら信号が変わるのを待つ。息も絶え絶えな貴女。こちらを見る彼女が絶望に表情を染め上げて叫ぶ。
「喜多ちゃんッ! 逃げてッ!」
唐突に響くクラクション。金属を薙ぎ倒す音。ふと横目に図体の大きな車体が見える。フロントガラス越しに身体を伏せた運転手を捉えた。私はいとも簡単に跳ね飛ばされる。生命の灯火なんて、いとも簡単に消え去るのを身で以って実感する。
「約束……したん……です」
また会えると。彼女の手が頬に添えられる。焦点が合わず、その顔が何重にも輪郭を形作る。まるで何度もこのやりとりが繰り返されているかのように。
『うん。約束したよ、聞こえてるよ! だから……』
雫が私の頬に落ちる。ようやく気付けたのに。これで終わりなんて………………嫌だ。最後の力をふり絞る。必死に私を呼ぶ彼女に残したもの。最初で最後。そして何度も繰り返そうとしたその熱は塩辛い鉄の味がした。
『さよならなんて言わないでよッ!』
さよなら。私を待ってくれる人。今度はちゃんと想いを伝えて……。
次に目を覚ませば見慣れない天井が………………天井? 痛む節々を庇いつつ上半身を起こした。呼吸は正常だ。声も出る。腕も折れてない。そして左指のタコは私の最後の記憶よりも明らかに厚かった。
ひと安心して辺りを見渡せば、パイプ椅子で転寝をする先輩の姿が見える。その容姿は明らかに若返り、明らかなコスプレではなく高校生が板についていた。
「あれ……喜多ちゃん…………喜多ちゃん? 喜多ちゃん!?」
ずっと飽きずに眺めていたらどうやら目を覚ましたらしい。彼女は私の状況を顧みず飛びかかろうとしたが、寸での所で思い留まった。
「良かったぁ……良かった。目が覚めたんだ……」
涙ぐんでようやく腰を下ろす。何かもう、私よりも伊地知先輩の方が満身創痍じゃないですか。
「ここ数日ずーっと変な夢ばっかり見てたんだよね。それも喜多ちゃんの病室にいると必ず寝ちゃってさぁ……」
何十通りも喜多ちゃんがいなくなっちゃうって。そんなの私は耐えられないと彼女は顔を覆った。そして、それでも足繁く通ったおかげで目が覚めたんだよねと頬を掻いた。
「伊地知先輩……大事な話をお伝えしたいです」
突拍子がないですから笑わないで下さいねと言えば、実は私もなんだとはにかんだ。
私は私しか知らない夢の話をします。その代わり、貴女から貴女の夢を聞かせて下さい。
これからは離れても傍にいますから。そう不自由な手で彼女と再び指を切った。